新日本プロレス1990.2.10東京ドーム大会はなぜあそこまで盛り上がったのか?
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もう30年以上前の話だ。
昭和から平成へ時代が移る頃、プロレス界は多団体時代の夜明けだった。
全日本、新日本の老舗2団体に加えて第2次UWF、FMWが相次いで旗揚げ。
特に第2次UWFの勢いは凄まじく、旗揚げわずか1年半で
東京ドームに進出するという離れ業を演じた。
この頃のプロレスファンは、旧来のプロレスに閉塞感を感じていた。
TV中継がゴールデンから夕方や深夜に移行し、「プロレス冬の時代」と呼ばれていた。
新日本は長州力たちの復帰や旧ソ連勢の参戦などがあったものの路線が迷走し、
現状打破を図った藤波辰巳による飛龍革命も結局尻すぼみに終わった。
全日本は鶴龍対決という切り札を持っていたが、全体的に不透明決着がまだ多く、
ジャンボ鶴田とスタン・ハンセンのお決まりの両者リングアウト決着に対して
ファンが怒ってリングにモノを投げ入れる、という事態まで発生していた。
第2次UWFが支持されたのはそういうファン心理を掴んだことにもよる。
キーワードはスポーツライク、完全決着、真剣勝負。
キックとサブミッションを中心にKOかギブアップで勝負が決まる。
いま思えばUWFもれっきとしたプロレスではあるのだが、
当時は一線を画するものとしてメディアにもてはやされていた。
そんな時代背景の中で開催されたのが新日本1990.2.10東京ドームだ。
新日本にとっては2度目の東京ドーム興行。
もともと予定されていたメインはグレート・ムタ-リック・フレアー戦だった。
米WCWで人気を博したこのカードを逆輸入するイメージだったのだろう。
抜群のプロレス脳を持つこの2人であれば面白い試合にはなったと思う。
しかし、東京ドームをフルハウスにできるカードとはとても思えなかった。
やはり一般社会を巻き込むくらいのインパクトがないと5万人の動員は厳しい。
しかしその後、フレアーの来日キャンセルが発表された。
4月に東京ドームで開催予定だった日米レスリングサミットにおいて、
新日本がWCWとライバル関係にあるWWFと手を組んだことが原因だったみたいだ。
かくして2.10東京ドームの目玉が白紙に戻ってしまった。
アントニオ猪木が参議院議員になったことで新日本の社長に就任していた坂口征二は
全日本のジャイアント馬場社長にこの大会への選手の貸し出しを要請する。
新日本の社長が猪木のままであったら、この話はおそらくなかっただろう。
最初はハンセンだけでも、という話だったが、結局鶴田や天龍源一郎といった
トップどころまで貸し出されることが決定し。事態は風雲急を告げた。
にわかに両団体による対抗戦というムードが盛り上がり、
「プロレス界のベルリンの壁崩壊」と言われた。
当時の私は高校生だったが、衝動的にチケットを買ってしまった。
対抗戦はTV中継されないだろうから、行かないと見られないと判断したからだ。
試合は土曜日だったが、当時の高校はまだ「半ドン」があって、午前中は授業だ。
試合開始は6時なので、授業が終わってすぐに新大阪からひかりに乗れば間に合う。
私は車内のトイレで着替えを済ませ、6時ギリギリにドームに入った。
期待感に胸を膨らませていた満員の観客は、前半からデキあがっていた。
負傷した藤波の代役としてラリー・ズビスコのAWA王座に挑戦したマサ斎藤が
ベルトを奪取した瞬間の大歓声はそのまま続く対抗戦への序章だった。
東京ドームに鳴り響く「J」。
新日本の会場でこの曲が流れていることが信じられない。
私は声の限り「ツ・ル・タ・オー!」コールを叫んでいた。
谷津にとっても久々の新日本マットだ。
試合内容よりも鶴田が実に楽しそうに試合をしている。
私は希少性から考えて、この日のハイライトはこの試合だったと思っている。
天龍と長州は対戦経験があるため、鶴田の試合ほどの新鮮味はなかった。
その代わり、両者がライバル心剥き出しでやり合う無骨な展開が懐かしかった。
試合は天龍組がリングアウト勝ちを拾った。
続くハンセン-ビッグバン・ベイダー戦。
ベイダーが持つIWGPのベルトを賭けた外国人版の対抗戦だ。
結果は両者リングアウトだったが、この結果に怒るファンはいなかった。
とにかく試合内容が素晴らしすぎた。
文字通りの肉弾戦。
両者の持ち味が存分に出ていた。
今大会で一番ドーム向きのカードといえた。
相手はクラッシャー・バンバン・ビガロ。
北尾の良さをなんとか引き出すための相手としては申し分ないチョイスだ。
しかし、そのビガロをもってしても北尾の拙さが露呈してしまった。
まず入場で失笑を買った。
ド派手な衣装にサングラスまでかけている。
デビュー戦に向かう新人選手の出で立ちではない。
それでも試合内容で唸らせてくれればまだ良かったのだが、
とにかくビガロにおんぶに抱っこでところどころ笑いが起きる。
最後は走る方向を間違えたギロチンドロップでビガロからピンフォール勝ち。
この試合でプロレス界における彼の立ち位置が決まってしまった感がある。
そしてメインが猪木、坂口組-橋本真也、蝶野正洋組の親子世代対決。
試合前の猪木のビンタ騒動と橋本による「時は来た」発言で有名なあの試合だ。
試合は橋本組のほぼ一方的な展開であり、衰えた猪木が痛々しいほどだった。
最後は猪木の延髄斬りでフィニッシュとなったが、この試合のハイライトはこの後だ。
マイクを持った猪木が観客に語り始める。
引退発表かと思ったがどうやらそうではないみたいだ。
「最後にひとつ、気持ちのいいやつをやらせて下さい!」
「いいですか、1、2、3でダーです」
スタンドが笑いに包まれるが、なんか猪木らしくていい。
そして猪木による号令だ。
「イーチ、ニー、サーン、ダァーーーーー!!」
観客全員が手を突き上げて叫んだ。
その後多くの芸人なんかが真似ることになる「123ダー」の原点がこれだ。
こうして2.10東京ドームは大盛況で幕を閉じた。
それまでプロレス界を覆っていた澱んだ空気を一掃するものだった。
いまのファンにはなかなか理解されないだろうが、全日本と新日本の選手が
同じリングに上がって戦う、ということ自体が当時はあり得なかったのだ。
それまでまったく捌けなかったチケットが飛ぶように売れたことを考えても、
いかにファンが刺激に飢えていたかがわかる。
旧来のプロレスの没落を心苦しく見ていた私のようなファンが
歴史の証人になるためにこぞって東京ドームに集結した日だったのだ。