人生の雑記帳

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大阪人なのに!?ヤクルトファンは肩身が狭かった。

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私は高校生まで大阪で過ごした。

プロ野球が大好きだったが、なぜか阪神ファンにはならなかった。

どういうわけか当時弱小の名をほしいままにしていたヤクルトを贔屓にしていた。

理由はよくわからない。

多分ユニフォームのカラーとか、弱いけど個々の選手が魅力的とか、そんなんだろう。

私がヤクルトに興味を持ち始めたのは小学校低学年の頃だったと思う。

当時の監督は武上四郎さん。

弱い、とにかく弱い球団だった。

毎年繰り広げられる大洋との最下位争い。

選手たちは個々には実に素晴らしいメンバーが揃っていたと思う。

若松、大杉、杉浦、水谷、角、大矢、松岡、尾花、梶間。

控えの層が薄かったのだろうか。

たまに5位になるだけですごく嬉しかったのを覚えている。

開幕直後に瞬間的にAクラスになり、新聞の順位表を記念に取っておいたこともある。

 

巨人戦は必ずTV中継があった時代なのでヤクルト戦は欠かさず見ていたが、

後楽園で試合があるときは7時の放送開始の段階でリードしていることはほぼない。

3連戦で1つ勝てればいい方だった。

 

阪神戦もほとんど中継されていたが、こっちはまあ巨人戦よりはマシというレベル。

いま思い返してみて驚くのは勝ち負けよりも観客の少なさだ。

今でこそ甲子園はどのカードでも客が入るが、当時のヤクルト戦はガラガラだった。

阪神側はそれなりに入っていたが、3塁側がとにかく寂しい。

当時の甲子園はヤクルト、大洋、中日の3球団に応援団らしい応援団がおらず、

ハッピを着たおっちゃんが数人内野席にいて、笛と太鼓を鳴らしてるだけ。

トランペットといった音楽を奏でるようなものはまったくない。

周りにファンもいないので、おっちゃんたちの声だけが元気に響いている。

 

そんな時代に大阪にいながらヤクルトに愛情を注いでいたわけなので

当然学校でもその存在が異様に浮いてしまう。

今でこそ、どの球団のファンでもそれなりにリスペクトされ、バカにされたり

することは減ったと思うが、当時の小学校でヤクルトファンは非国民扱いだった。

クラスには阪神ファンが70%、巨人ファンが20%、残りが中日、広島とかだ。

ヤクルトと大洋、そしてパ・リーグ球団に愛着を持つ子供は絶滅危惧種だった。

まあさすがに大阪なので阪神近鉄の掛け持ち組はそれなりにいたみたいだが。

先生もまた残酷なもので、給食の時間にどこのファンかを順番に挙手させたりする。

「ヤクルトファンのひとー?」

のところで先生の顔が半笑いになっているのがわかる。

手を挙げた子供を皆で笑ってやろうという魂胆がみえるのだ。

私はおそるおそる手を挙げた。

反応しなくても良かったのだが、そうすると今度はクラス中から総攻撃に遭う。

「お前ヤクルトファンやないかー!早よ手挙げろやー!」

である。

まさにマイノリティの悲哀だ。

 

そんな地域事情なので、ヤクルトグッズなんてなかなか手に入らないわけだが、

当時私がほしかったものといえばやっぱり野球帽だ。

当時はいまのようなTシャツとかはほとんどなく、子供といえば帽子だった。

かぶってる帽子でどこのファンかがわかるのは今と変わらない。

だが当時の大阪でヤクルト帽をかぶっている子供は一度も見たことがなかった。

「まゆげコアラ」に出会うよりもはるかに難しかったと思う。

百貨店に行けばセ・リーグならだいたいどの球団のものもあったのだが、

ヤクルトだけがどうしても見つからなかった。

今思えば甲子園に行けば買えたのかもしれないが、とにかく需要がなかったのだろう。

割と近所の小さなデパートにひっそりと陳列されていたときは本当に嬉しかった。

まるでドラゴンクエストのレアアイテムを見つけた気分だ。

その帽子は最近まで私の子供たちがかぶっており、現役で活躍してくれていた。

デザインは一度変更があったが、今現在と同じシンプルな白地のYSマークだ。

ヤクルトのロゴはやっぱりこれが一番カッコいい。

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その後、監督は土橋さん、関根さんと変わったが圧倒的弱さは変わらなかった。

それでも私のヤクルト愛は変わることはなかった。

そんなヤクルトがようやく変化を見せ始めたのが90年代に入ってから。

野村さんが監督に就任し、古田が選手として入団してからだ。

捕手として燻っていた飯田を外野手として開花させ、池山や広沢も主力に成長した。

投手陣も西村、岡林、伊東昭、伊藤智、高津、そして荒木の復活と多士済々だった。

脇役にも秦や橋上、土橋のいぶし銀、80年代を支えた杉浦や角が仕事を全うした。

そしてハウエルの加入で戦力が最高レベルに上がったところで92〜93年の連覇。

2年にわたる西武との日本シリーズの死闘は今も記憶に残る名勝負だ。

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90年代はその後も2度の優勝と日本一を勝ち取り、ヤクルト史上最高の10年といえる。

あれだけ弱かったヤクルトがここまで強くなったのか、と感慨深かったものだ。

21世紀に入ってからも2度の優勝を果たしてはいるが、

私の中では2001年の若松監督のときが実質的に最後、と思っている。

2015年の優勝はどうも素直に喜べなかった。

どうにも野球が雑に見えてしまったのだ。

パ・リーグとの差を実感し始めていたから、というのも多分あるし、

ソフトバンクとの日本シリーズも負けるのが目に見えている、とも思った。

そして予想通りほとんど何もできず負けた。

せ・リーグの野球自体にあまり魅力を感じられなくなっているのも事実だ。

DH制導入でもなんでもいい。

人気に胡坐をかかず、リーグが一体となってセを盛り上げてもらいたいと切に願う。